思わず律儀に反応する学術博士。転がりとまらない独楽。
To: 上田假奈代
From: 橋本敬
Date: Mon, 18 Feb 2002 16:37 +0900
Subject: パレードとりんごと主体と時間
假奈代ちゃん

こちらは、寒いことは寒いのだけど、まだ恐れていたほどではなく、
天気も良いし風邪も強くないのです。
今年は暖かめのようで、気持ち悪いと言ってる人もいる。
それでも夜に、夜といっても9時頃で道が凍っています。
明け方とかはもっとすごいのでしょう。
たまに、つるっと来ます。

年末からイタリアに行って来ました。
太陽とうまい飯を求めて、アルプスの麓からシチリアまで
縦断です。
食べ物が、ものすごく美味しかった。
写真を送ります。

> 変化させる、という目的意識は、ほぼないんだけれど。
> せめて、そのことに気づいてほしいなあ、と思って朗読しているよ。

普通は、変えようとか目的を持ってそうしてはいないんだろうけど、
やっぱり詩人は意識するんですね。
聞く方、読む方は変わろうと思っているわけじゃないけど、
でも、ある時はっと気づくことってあると思う。
今変わった、と明らかに思えるかどうかはわからないけど。

> ことばを発するとき、特に、ことばの声に、その人の人生の担い方があらわれると思っ
> ているの。

なるほど。
人生の担い方か、僕はどんな風に担ってるんだろう。
自分ではわからないね。

自分声って、半分自分の体の中、特に骨を伝わって聞こえて来るから、
人が聞いてるのと全然違うんだよね。
じゃあ、自分が思ってる自分の人生の担い方と、人が自分について
思っている担い方は違ってるんだろうか。多分違うんだろうね。

僕は、言葉の受け取り方に人生が表れると思ってるかな。
同じ言葉を受け取っても、それにどう意味をつけるかってのは
経験によって異なって来る、というのが僕のコンピュータシミュレーション
でも出て来た結果。ま、そんなことシミュレーションしなくても
当り前なんだけどね。

> ことばを発するときに、意識をきちんと傾けて
> 人生の光になるといいな、って思っています。
>
> たとえば、わたし自身もかれこれ10年ほど朗読しているけれど
> この意識をもってからというもの、ものすごく出演依頼がふえたのね。

ふーん、やっぱり「伝えよう」という気持ちが大切なんですね。
伝わった、という感覚ってある?
あるいは、伝わってない、違って伝わったかな、という感じとか。
伝わったと思ったけど、実は伝わってなかった、という経験とか
あったら、そんな場面でどんな感じなのか、教えて欲しい。

ちなみに、僕はコミュニケーションっていうのは、自分のこころや
頭の中にあるものをことばに乗せて、相手のあたまやこころに
移し変えるものだとは思ってないんだよ。
シャノンっていう、情報理論の大学者のコミュニケーションの理論は、
そういう形になっているけどね。
だから、コミュニケーションの失敗というのは、伝えたいことが伝わらない、
ということになってしまう。
僕は、意味は受け取る側がつくり出すものだと思ってるので、
つぎつぎに互いに意味をつくり出しているプロセスがコミュニケーションで、
そういう意味では失敗というのがない。
誤解や曲解もまたコミュニケーション。

> 詩のテキストは昔のものであっても朗読すると、やはり以前の感じとは違うの。
> これは場数なのか、学習なのか、意識なのか、それらすべての合致なのかもしれない
> けれど。いつのまにやら、わたしの姿勢は「人生の光となることばと声を伝える」こ
> とです。

僕はあんまり伝えよう気持ちがないかな。自分が楽しもう、というのが強い。
でも大学で講義したり、人を指導するようになって変わったかもしれない。

> エディンバラでは、どういった方とグループを組んで、研究なさっているの?

言語学者として、言語の進化の研究をやっているグループとしてはもっとも中心的なところかな。
でもね、行っていろいろ議論して思ったんだけど、根本的な考え方が違うなって。
これは前にも書いたかな。彼らはことばとものとの対応が言語だ、
と考えているみたい。Language as mapping っていうタイトルで
発表するくらい。そのマッピングくらいなら動物でも持ってるんだけど、
人間の言語の特徴は、それが文法的になっていること。
つまり、ものに対応した言葉を文法にしたがって組み上げることで、
無限のものやことを表現できる。

僕はもっとダイナミックで、そういった対象物としては捉えられないと
思っているんで、それに対抗して、Language as dynamics っていう
タイトルで発表したけど。(笑)

西洋哲学の伝統だと思うんだけど、こういった考えの下には、
「世界は書ける」っていう信念が根底にあるみたい。
東洋思想的には、生成流転というか、「対象を確定させて書く」という
考えや手法だけでは捉えきれないなにかがある、という思いがどこかにあると思う。

ことばはそれこそ、そういった流れの中に、一瞬表れて、また流れて行く。
物理的には、空気の振動であったり、インクの染みであったり、
そこにはなにもないんだよね、あたりまえだけど。

こういう言い方すると、取り方によっては、科学的な方法論ではだめだとか、
神秘思想に走っているようににも聞こえるけど、そういうことじゃない。
意味なんて、手に取ってそこにあるように、考えてしまうと、
「りんご」という言葉の意味が、そこにあって手に取って、
かじったりできるものとしての「りんご」だ、ってことになってしまう。

> そして、研究ではコンピュータを使って、
> 言語が育ってきているの?
>
> それは喋ったりするの?

喋らそうと思ったらそれもできるけど、僕のやっていることはちょっと違うかな。
上で書いたようなことをなんかわかろうとするとき、キーとなるのは、
主体と時間だと思ってるんですよ。
でも主体性なんて科学の対象にはなり得なくって、文学やアートの領域になってしまうのが普通。
だから、初めから外にあるなにかを記述するんじゃなくって、
コンピュータを使って世界を作っちゃおう、と。
作った世界の中に主体を埋め込んで、そのシステム全体を客体として
理解する、という感じかな。構成論的手法、って呼んでるんだけど。

それと、言語とか生命とか、複雑で進化する対象の今の姿をコンピュータに
写し取るのは難しいので、そのご先祖さまを作ってやる。それで進化の機構も
入れてやって、進化して行く様を見てやるんです。
そうすると、でき上がったものだけじゃなくって、できる過程まで
見られることになるし、どんな設定だったらできて、どんな設定だったら
できなかったり、変なものをつくっちゃったりするか、ってことも
いろいろと試すことができる。

複雑系、ということばが日本でも少し前にはやったけど、この手法は
複雑系研究の中心的なもの。人工生命という分野で特に使われる。
まさにSFみたいだけどね。
僕にとっての複雑系は、上に書いたような、主体性とダイナミクス。
これを理解しようとしたり、中心に据えたりした研究が複雑系かな。
だから、単に、対象が複雑だ、とか、いっぱいいろいろ入り組んでる
ってのは、別に複雑系とは考えてない。

> 感情が先に立つものなの?
>
> そもそもコンピュータには、この複雑な感情というものはあるの?

それはないんだな。大きな大きな謎ですね。

> 網膜の不思議
> 耳の不思議
> 触覚の不思議
> 記憶の不思議
> いろんな不思議が集まって
> わたしたちは感情をとらえ、変化させ、ことばを選んでいたりするわけよね。
>
> コンピュータもそういう機能をもっているの?

ひとつひとつが「不思議」で、そういった不思議のひとつひとつが
まだまだ解明されてないから、組合わさって出て来る、ことばってのは
まだまだわからない。でも、コンピュータもいずれはそういう機能を
持つようになるんじゃないかな。

> 工学系のひとは、またちがうアプローチでそれを探っているの?

言語の進化は構成論的な手法で研究されることが多くて、
そうするとコンピュータをうまく扱える工学系のひとが
がんばることになる、という程度かな。

としを

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